原田采女伊織墓所

伊達騒動については各種諸説がありますが、享保2年(1717年)に書かれた「伊達大盛兵甲記」中之巻に次の記述があります。

「原田帯刀子供弐人嫡男采女五歳次男伊織当歳なるを高野靭負領地刈田郡平沢と云所にて刺殺す」

また「家蔵記」には「介錯高野靭負」と記述があります。高野靭負は高野家16代可兼です。
ではなぜ高野家で二人を殺すことになったのか。

事件後、采女と伊織は高野家に預けられました。
保昌寺に伝わる話では、その理由は二人の乳母が高野家御家老衆、木村家の出身だったからということです。

殺された日、5歳の采女は子守役と鬼ごっこをしていたとのことです。目隠しをされ、声のするほうへ行った際に采女は殺されました。また、采女と伊織の世話をしていた乳母ら五人も殉死したそうです。

采女伊織二人の菩提を、密かに高野家御家老衆木村家の代々の当主たちが供養し続けてきたことが公になったのは最近のことです。

伊達家へ反逆した者を供養することは、伊達家へ反逆する行為とみなされる恐れがあり、采女伊織を弔うことは、高野家にとって最重要機密であったと推測されます。
木村家では墓の存在を口外することはおろか、お墓参りをするところを人に見られてもいけないと代々申し伝えてきたといわれ、明治維新後も、官憲の追及等三度の迫害を受けたといわれています。
その都度穴を掘って墓石を土中に隠したりしたそうで、今ではどの墓石が誰のものであるか不明になっています。

また、采女伊織の墓は他所にあり、木村家がお参りしやすいように保昌寺内木村家墓地に改葬したと伝わっています。